こんにちは!
ここでは今生のmaiaについて、少し詳しいお話をします。
振り返ると、幼少期から地球に馴染みにくかったし、この地球の常識(社会ルール)に無理に合わせようとしていたなあとから、つくづく思います。
どちらかといえば、宇宙意識でいる方がずっと楽なんです。
なので、宇宙由来の魂を自覚してからは、これまでの生きづらさ(地球の馴染みにくさ)が妙に納得できて、ホッと安堵感を感じました。
みなさんも思い当たるところはありませんか?
だんだん、ホントの自分と繋がって宇宙と地球につながる生き方がわかるようになると、日常生活がどんどん楽ちんになってきました。
自分の嫌な部分に気づき、認め、受け入れて理解することができるようになってきたら、家族の優しさや何気ない日常生活に、感謝の気持ちがあふれてくるようになりました。
こんなふうに変われたのは、自分を知って、イヤな部分も全てまるっと受け入れてあげられるようになったからかな〜。
いつの間にか、家族だけでなく地域の人まで優しくなり、家の周りは素敵なお店や環境になってきました。
どこかで、いつも「大丈夫!」と思えるこの感覚は、ありがたい(有難い)ものです。
自分自身とつながっていると、安らぎを安心感に包まれます。
自分と向き合い対話して、宇宙の応援と体の働きに感謝しながら、穏やかな日常を楽しんでいます。
今でこそこんなふうに喜びの中で過ごすことができるようになった私ですが、過去のmaiaは全く違っていました。
人とテンポがずれてて不器用で、ボーッとしているところをよく怒られていました(笑)。
物心つくようになってからは、何をやってもダメだと思って、自信もなく自分のことが大嫌い。
自分大嫌いに加えて、自分は何やっても下手くそ、という思いがいつも根底にあったのに、「弱いボロボロの自分を見せられない、見せたくない、見られたくない!」と思っていました。
今だからわかるのですが、
「本音を言ったら嫌われる、傷つきたくない」気持ちもいっぱいでした。
「いつもちゃんとしていなければダメだ」とそんなふうに自分をがんじがらめにしていたのでした(当時は、型にハマって正しく生きることが「ちゃんと」だと思っていましたから・・( ; ; ))。
当時のmaiaはそんな嫌な部分を見ようともせず、半ば無視するように人生を進んでいました。
ですが、事なくやり過ごしたと思っていても、その観念や思いは、何度も何度も形を変えて現実としてmaiaのもとにやってきました^^;
最終的に自分と向き合わざるを得なくなりました。
自分と向き合うことを始めてから、世界はやわらかくなりました。
これも、「大いなる私」がやってみたいことの一つだったのでしょうか。
すごく遠回りしたように見えたストーリーも、実は自分が作ったドラマの一コマだったのです。
そんな不器用なmaiaの今生でのドラマチック・ドラマストーリーをお話ししますね。
お茶でも飲みながらお読みくださいね。
<略歴はこちらです>
福岡県生まれ。蟹座。O型。
現在千葉県在住。夫と2人の娘。女の子の孫ひとり。
大学卒業後、化粧品会社勤務後、結婚して神戸に住む。
子育てをしながら、公文式学習塾を開く。
夫の転勤に伴い、千葉に転居。
翻訳者になろうと思って通っていた翻訳学校で
ある受講生仲間に頼まれて特許事務所に入所。
父の逝去後、母の介護のため、退職。
魂の望みを知り、自分を表現し始める。
♡中学高校英語教職課程
♡レイキ・ヒーリング・システム(ファースト&セカンドディグリー)
♡アロマテラピーアドバイザー(現在、返上)
♡心の学校 宇宙コース
♡ヒマラヤ聖者の瞑想
♡BCU(ビジネスクリエーターユニバーシティ)
♡TAOメンタルビジネス塾
♡Perfect Focus on Omnipresence Methodセミナー
♡行動心理士、メンタル心理カウンセラー、上級心理カウンセラー
♡レムリアン・ヒーリング®プラクティショナー
♡レムリアン・ヒーリングテーチャーコース
♡レムリアン・ヒーリング®マスター1レベル
♡レムリアン・ヒーリング®マスター2レベル
♡スピリチャルチャネリングメソッドマスターコース
自然と一体だった幼少期
自然とともに生きていました。
土も空も風も海も、全てが友達のようでした。
見るもの触るものが、楽しくて面白くてたまりませんでした。
毎日が、新しい冒険の旅に出かけるようでした。
覚えているのが、蜂に刺されて大泣きしたこと。
当時私は、ミミズやアリやトカゲやミツバチと大の仲良しでした。
毎日土を触って、植物や虫たちを観察していました。
中でも、当時の社宅の庭に自然に咲いていた花に集まってきていたミツバチを両手でパコンとキャッチすることが、楽しくてたまりませんでした。
キャッチしたら、すぐに放してあげるのです。
ただそれが、面白かったのです。
ミツバチは友だちでした。
だから絶対刺さないと思い込んでいて、安心してその遊びを楽しんでいました。
ある日maiaは、家から離れた別の場所に出かけて、いつものようにミツバチキャッチをしようと思いました。
そこにいたハチはいつもmaiaが遊んでいたハチとは少し形が違っていました。
少し小さく、細長い形をしていました。
それでも、「ミツバチは刺さない!」と信じていたので、いつものように両手でパカッと挟んでみたら
次の瞬間、薬指に強烈な痛みを感じたのです。
ミツバチは、絶対刺さないはずだった・・・のに・・・
その強烈な痛みとショックで、ワーワー泣きながら家に向かって一目散に走りだしたのを覚えています。
痛みとともに、自分の中のミツバチへの信頼が、一気に崩されていくことがショックでした。
あとでよく考えたら、そのハチはミツバチではなかったみたいです。
他にもいろいろあります。
◆ 道の端っこを歩いていたら、こけて溝に落ちて耳を怪我して大出血した話。
◆ カトリックだった幼稚園でのいつものお祈りで、「アーメン」とみんなで唱えた後、「ソーメン、ヒヤソーメン」とコソッと付け足して怒られた話。
◆ その影響なのか、マリア様に守られていると思い込んでいたこと。
◆ 犬に追いかけられて、一目散に走って逃げて、滑り台のてっぺんにヒーヒー言いながら登って「ああ、もう大丈夫。」とホッとして後ろを振り返ったら、犬がそこにいた話。
◆ 山好きの父に連れられて冬の雪山登山をした時、頂上で始めて飲んだコーヒーに体が反応して下山途中、頻尿になって困った話。
◆ 「ネギを2把買ってきて」と母親に頼まれておつかいに行ったものの、2把の意味が分からず(鳥でもないのにニワって何だろう?)、お店の人にも言えずウロウロしていたのを、痺れを切らした母親が迎えにきた話。
◆ 「あれはオリオンの三つベルトだよ」、「あれはカシオペアだよ」と月や星のことをいろいろ教えてくれた父の影響で星や空が大好きになった話。
◆ 歩いていたら、よく目に虫が飛び込んできて痛かった話。
◆ インフルエンザワクチンの注射をした日に、遅くまで公園で遊び回って翌日大熱を出し怒られた話。
◆ 喉が弱くてすぐに熱を出し、かかりつけの医院で必ずお尻に注射をされるのが嫌で嫌で逃げ回っていた話。
数え上げたらキリがないほど、いろいろやらかしました。
たくさん怒られたものの、楽しく天真爛漫だった幼少期です(^^;
ちょっとナイーブな思春期
小学校高学年から中学にかけて、天真爛漫でいることが自然とできなくなっていきました。
サラリーマンの父は毎日残業で、接するのはいつも専業主婦の母でした。
今思うと、父のことも母のことも大好きでした。
父と母の愛の中にしっかり包まれ、守られていたのだと感じます。
当時の、父親は企業戦士、母親は主婦で家庭を支える、という一般的な家庭です。
日曜だけが休日の父。その休みには山や海、自然の中に一緒に出かけていました。
母は、もとナースのちょっとサイキックな専業主婦。
私が家事を手伝うシーンはほとんどなく、ちょっと過保護だったかもしれません。
中学の頃、ある日から学校に行くと集団で無視されるようになったことがあります。
大の親友だった友達もその集団に入っていたのはとてもショック。
誰にも相談できず、帰ってくると自分の部屋に閉じこもって、悔しさと悲しさで「遺書にいじめた全員の名前を書いて死のう!」と考えたこともあります。
でもできませんでした。
そんな勇気はなかったのです(´∀`)
本を読むことや空想することが好きでした。
特にSFが大好きで、海外や日本の作家の作品を読みまくっていました。
宇宙やタイムトラベル系の物語となると、無限にイメージが広がり空想が尽きることはないくらい楽しいものでした。
手塚治氏の火の鳥やブラックジャックなども愛読していました。
普遍的な命について思いを馳せるようになっていました。
宇宙系のものにとても興味を惹かれていて、「2001年宇宙の旅」の原作を読み映画を見たときは衝撃で、ますます宇宙について興味が深くなっていきます。
進学した高校は、大学進学が第一優先の学校でした。
いつも睡眠時間が足りず、毎朝起きるのが辛く、体がだるく休みたい、それなのに休むことを自分に許すことができない人間でした。(多分、自律神経失調気味だったかも・・。)
冬の校舎での午後の授業は寒くて寒くて、だんだん動けなくなり次第にまぶたがくっついてきます(凍死ってこんな感じかー笑)。
真面目、つまり怖かったんですね。
レールから外れて生きることが!
片思いも経験しましたけど、自分に自信がないので話をすることもできません。
空想の中で、ひたすらその人を思うだけの日々です^^;
残念ながらそのまま、何にもなく終わりましたよ〜。
(その後、同窓会で数十年ぶりに再会した時には昔の面影はなくなっていましたが、元気でいてくれて嬉しかったです。)
この頃から、「意識って何だろう」、「人は何をしにここにいるのか」、「何が人を動かしているのだろうか」という疑問がわき始め、追求することが始まります。
ちょっと自由な大学時代
「大学は国公立大学だけにしてね〜。」
(当時、地方の大学はまずは国公立大学を目指し、落ちたら私立へ・・という流れのようでした。)
そう言われ、何とか頑張って地元の公立大学へ進学します。
片道3時間くらいかかる道のりを、電車とバスを使って通学。
その辛さに耐えかね、親を説得して3年生からは大学の近くに下宿生活を始めました。
仕送りの額も決まっていたので、家庭教師やその他のバイトをしながら、何とかやりくりしていました。
親元から離れることができ、貧しいながらもようやく自由を感じていました。
あまり、こうなりたいというあてもなく、流れで教職課程を選択。
90分の授業は長すぎました(適当ができそうで、できなかったのもあります)。
この教職課程の単位を、課題提出の期限忘れで、危うく失いそうになったことがあります。
真っ青になり、担当の教授にひたすら謝り、懇願して、何とかギリギリのところで単位をいただけました。
爪が甘いmaiaです・・・。
友人はみんなスマートに過ごしているように見えていて、いつもどこか抜けてる自分をますますイヤになっていました。
この大学時代の忘れられない思い出といえば、北海道の中標津のパイロットファームで1ヶ月の牧場生活をしたことと、夏休みにハワイ大学へ1ヶ月語学留学をしたこと。
奇しくも、この大学時代にレムリアの地を訪れていたのです。
初めての就職先でトホホな体験
第一志望は当時憧れていた航空会社。
仕事しながら海外に行けるなんてサイコー!というだけの理由でした。
しかし、ことごとく惨敗して、行き着いた先は某化粧品会社の営業。
面接も嫌で、3社しか受けなかったうちの唯一受かった会社でした。
その理由も、月収がちょっとだけ他よりいいし、じっとしているより動いている方が楽しいはず(ホントは嫌だという心の声を無視!)。
そんなこじつけで、半ば強引に入社していました。
maiaはことあるたびに、この心の声に耳を傾けず、損得勘定で強引に押し通してしまうことがありました。
やてみよう!やってみてダメなら考えよう!
そんな一面があるのです。(これも自分がやりたくて設定してきたことなんですけどね・・)
案の定、この仕事は全く合っていませんでした。
何とか偽りながら、仕事に自分を合わせてきましたが、続かず2年弱で辞めることになります。
ここでも失敗談はいっぱいあります。
例えば、こんなこと。
営業先から直帰した時のこと。
社用車をバックしながら駐車場に停める際、障害物にボコっと当ててしまい、車を大きく凹ませてしまったことがあります。
「あ~やってしまった~」と申し訳なく思ったものの、翌日会社に着いたら、車のことをケロっと完全に忘れていて、普段通りに過ごしていました。
そうしたら先輩が真っ赤な顔をして、私に向かって怒ってきます。
「何にか言うことはないか?」
maia「えっ?」
沈黙・・・
maia「なんか、ありましたっけ~?」
先輩は真っ赤に激怒しながら
「何トボケとんのか~!お前、車どうしたんか~!」
maia(やっと我に返る!)「アッ!そうでした!車、ぶつけました~~~💦」
こんな感じで、前日ぶつけた車のことをホントにすっかり忘れていて、自ら報告し忘れて怒られました。
わかっていて、ごまかしていると思われたみたいです。
当然ですよね。
でも本当に何の悪気もなく、タダ全く忘れていただけだったのです・・トホホ
結婚と子育てと仕事のドタバタ劇
仕事を辞めた私は実家に戻り、学習塾などでアルバイトをしながら生活を始めました。
再度就職することも考えましたが、この先、結婚して家庭を築いた上で、仕事ができたらいいなあと考えるようになります。
そんな時に出会ったのが今の夫です。
出会った時、バチっという感じがしたのです。
住居を神戸に移し、新生活を始めます。
待望の女の子にも恵まれ、明るい自分の理想とする家庭を思い描いていました。
ところが、理想の家庭となるはずの、その待望の第一子に生まれつきの病が見つかります。
「何がいけなかったのか・・・何が悪かったのか・・・やっぱり私は何をやってもダメなんだ・・・」
自分を責める日々が続きます。
結局、6歳の時に手術をして長女は普通に生活できるようになりましたが、検診や手術や看病、6年に渡り長女を中心に生活が動いていました。
ちょうど自宅で学習塾を始めた時、夫が転勤で単身赴任となり、母娘3人の生活が数年間続くことになります。
次女は長女と違い、とても育てやすくあまり手のかからない子どもでした。
しかし、とても感受性が強く集団生活が不得意でした。
常識破りのところもあり、なんでも質問したがります。
だんだんと、全日制の学校が合わなくなります。
その時、私たちは関東に居を移し、新たな生活を始めていました。
maiaは、次は翻訳者になりたいという夢があり、翻訳学校に通っていました。
そこで出会った人に頼まれて、知的財産を扱う事務所にアルバイトとして入り、自分でも翻訳の勉強をしながらその後社員として20年弱を過ごすことになります。
この職場でも、自分の直感に従わず、損得勘定で決断したことが、後々ものすごく後悔するという経験をしました。
異動を打診された時、心は絶対「イヤ」だと言っているのに、昇格という得を選んだがために厳しい道を歩むのです。
この職場で私は、ある方から紹介された「ラムサ・聖なる預言」という一冊の本をきっかけに、精神世界を知り学び始めます。
次女のこともなんとかしたい気持ちで、さらに精神世界にのめり込んでいきます。
もともと、意識の世界や超能力ってあるのが当たり前だと思っていたので(もともと宇宙好きで空想癖の人間です)、長編の「ヒマラヤ聖者の探究生活」「心身の神癒」「あるがままに」「人間の永遠の探求」などもとても興味深く読んだものです。
知花敏彦さんや小林正観さんの講話を聞きに行ったり著書を読んだりしました。
また瞑想をある師匠について学び、日常生活に取り入れ始めたのもこの頃です。
さらに、「黎明」の著者、葦原瑞穂さんのワークショップなどにも参加して精神世界についてさらに深く学びます。
何事にも識別心を持つことを学んだのもこの頃です。
自分がその先を知りたいという探求心と、ここに次女の根本原因を探る手がかりがあるという思いでした。
そして自分が変われば娘も変わっていくことを信じながら、手探りで進んでいました。
でも一進一退の繰り返し。
やがて次女に大きな環境の変化があり、それを機にさらに病状が悪化し、起きて活動できないほどの状態に陥ります。
この時、ふと私の心に響いた「レムリア」と言う言葉。
そして導かれるように出会ったのがレムリアン・ヒーリング®でした。
さらに、並木良和さんやドクタードルフィンこと松久正さん、ヤンタラ ジローさんに出会い、ワークショップに参加しながら、目に見えないエネルギーについて具体的に体験し始めていきます。
これをきっかけに、次女も精神世界に興味を持ち始め、徐々にではありますが変わり始めます。
彼女は自分を見つめ、内側と対話することで自らを癒すことをし始めます。
さらに自分の特性として自らを認め、自分の肉体と意識の乖離を少しずつ埋めていくために、研究を続けています。
高性能のセンサーの持ち主であるがゆえに普通とはかけ離れた感覚があり、自らの体で一つ一つ検証しながら、ここ地球での緊張を解くように努めています。
今思うと、これも支配とコントロールのためだったと分かりますが、精神状態がおかしくなると投薬というのは、お決まりのパターンのようです。
地球の医学での病気のカテゴリー分けも、パワーをなくすためのコントロールだったのかもしれません。
後々わかったのは、娘は地球に転生回数の少ない宇宙出身の魂(スターシード)で、この地球は非常に生き辛い場であったということです。
「この波動でよく地球にやってきたね、よく今まで生きてきたね」とスターシードkuさんに言われました。
高波動の宇宙の魂は、おおもとの自分とのつながりが切れると、本当に生きていくのが大変です(それを知って、敢えて地球の経験をしにきているのは本人の選択なんですけど・・・)。
この家族を選んで生まれてきてくれたのは、家族ごとシフトしていくため、その役割を果たしにきてくれた魂、これまでの常識を破っていく役割を持ったパワフルな魂なのだと思っています。
これはmaiaにも当てはまるのですが、自分が何者かというルーツを知ることが生きづらさの解消になりました。
maiaの場合、あるチャネリングを通してわかったのは、もともと個の意識ではない愛と光の集合意識体から、多くの星を転生してきている意識体であること。
分離や男性女性を体験したこともなかったことから、この体験をしに地球を来た魂であること。
話半分にしても、このような背景を知ったことで、これまでの生きづらさが納得できたり、深いところで感じることへの確信が持てるようになったことは、maiaには大きな一歩でした。
特に地球での違和感や生きづらさを感じる方は、ほぼ宇宙の魂(スターシード)ではないでしょうか。
介護と別れとその後
父の看病と別れ、母の介護、愛犬の介護と別れを経験しました。
これは、話し始めると長~くなりすぎるので、ここでは割愛しますね。
父や愛犬の別れを通して、肉体の死を経験してもなお魂の交流はできることを知りました。
肉体がなくなるだけで意識を向ければ、父も愛犬もすぐそばに来てくれるのを感じます。
maiaは次第に自分の内側に意識を向け始めることを始め、自分の中にあるいろいろな部分を知り始めます。
こうして、ようやく自分の中にあるものの投影が現実を作っていることがわかるようになりました。
大嫌いだった自分のことを愛おしく思えるようになり、どんな部分も全て「ああ、そうだったんだね。」と気づいて認めて理解できるようになってきました。
そして、とても平安な気持ちでいることができるようになりました。
こうして自分のことを受け入れ始めることができるようになればなるほど、自分の中にある愛の部分が大きくなってきます。
それに触れると涙が溢れるほどの癒しを感じるようになります。
そして、内側にある愛の光が大きくなればなるほど、自分の中にあった闇の部分が気にならなくなっていきます。
光があれば闇がある。
闇は排除する必要もなければ、悪者扱いする必要もないことに気づいていきます。
闇にもその役目があること。
闇があるからこそ、光がわかるということです。
気づいて、わかって、理解して、感謝して、調和していく。
その上で、光の方向を向いて歩いていくことを選んでいく。
そういうことがわかってきました。
地球で肉体を持って生きている限り、闇の部分は存在するでしょう。
これからも、それに気づいたら愛で包んであげる、気づいたら愛で包んであげる、これをずっと繰り返しながら自分の周波数を上げていきたいと思っています。
癒すということは、自分自身の闇を光に変えていく作業ですね。
そういう意味で、癒しは一生続いていくし、これからも進化は続いていくでしょう。
そしてそれぞれの魂は、経験という尊い宝物を持って光に還っていくのでしょう。
「私の経験とそこから得た学びが、ご縁のある方への気づきのきっかけになれば嬉しいなあ!」
「一緒に意識の次元を上げながら、この地球に愛と光の共振共鳴を大きくしていけたらいいなあ!」
「愛と調和に満ちた地球で安心とリラックスに包まれながら、明るくのびやかな毎日を生きていけたらいいなあ!」
そんな思いがフツフツと湧いきて、自分の中の愛と光から出てくるメッセージの発信を始めました。
今のところ、好きなことは「ボーッ」とすること。
ゆるっと「ボーッ」としていることが私も周りも一番心地良いみたいです(*´-`)
そしてゆるっとボーッとすることこそが
今世での私のミッションの一つでもあるようです。
とにかくコレまでの人生はガチってきたので
「もうそれやめようよ!」っていつも上から言われます・・笑
長い長い物語に最後までお付き合いくださり本当にありがとうございました。
どうぞよろしくお願いします^^
おおたいくこ(maia)